平穏な日々でも(2)
こんな夢を見た。
夜、湖のほとり。
月が明るく湖面を照らしていた。月齢の程、十二か三、といったところか。
風があった。
時折雲が流れ、月影を遮ると、雲間から漏れる月光が淡く、空をほのかに照らす。
ふと気がつくと、岸辺に石造りの東屋があった。
見たことのない少女が一人、月を見上げて、何か歌のようなものを口ずさんでいた。
歌詞は無いのか、あるいは聞き取れなかったのか……内容はわからなかったが、だがそれは聞いたこともないよく澄んだ声で、響いた。
青白い月光が、少女の纏う白いサマードレスを照らしていた。
しばらく、少女が歌う様を見ていたのだが、やがて、少女はこちらに気がついたようだった。
歌うのをやめ、慌てた様子で東屋の柱に、隠れるようにしてしがみ付いた。
「……どうして、ここに」
そう聞こえたような気がした。
少女にとって自分は間の悪い来訪者だったようだ。
しかしかといって、他に行くあても無かった。
少女はかなり長いこと、そうして恥ずかしそうに柱の影から顔を覗かせてこちらを伺っていたが、やがて自分に立ち去る様子が無いことが分かると、隠れるのを諦めたようだった。
「……しょうのない人」
柱の影から出てきた彼女は、言った。
「ここは、秘密の場所のひとつ」
少女が指差す先には、湖面に映る月の影。
「例え嵐が来ても、何故か此処は晴れるんですよ」
少女はこちらを見て、悪戯っぽく笑った。
「せっかくですから、お茶でもいかがです?」
少女に誘われて東屋に入る。
木組のベンチに座ると、テーブルには、磁器製のカップがふた揃えとディーポットが用意されていた。
「実は私も、このお茶は好きなの」
そう言いながら見知らぬ少女は、裏返されていたカップを返して着々と準備を進めている。
その手際に、自分は何故か期待と不安が入り混じったような妙な気分になっていた。
少女はティーポットに被せられたコゼーを外すと、ポットの中身をカップにゆっくりと注いだ。
ふんわりと湯気が立ち、淡い柑橘系の香りが漂う。
注がれた琥珀色の液体に月光が射し込んで、白く輝くカップの底を照らした。
気が付くと少女は、いつの間にか出現した、磁器製の器に手をかけた。
何故か中身が分かった。あれは砂糖の壺だ。
妙な気分がそのまま焦燥感に変わった。
なぜだかわからないが、『ああ、夢の中でもこうなのか』と思った。
明晰夢だというなら自分の意志で展開を変えられるべきだろう、などとも思った。
覚醒が近づいたのか、もともと眠りが浅かったのか。
そうだ。そうだった。あの壺は所長の部屋にあるやつにそっくりだ。
ミーティングに行くたび飲むことを強要される、あの物凄く甘い紅茶!
間違いなくハラスメントなのだが、所長にまるで悪気がないところが本当にズルイと思う。
文句を言えない。
気がつけばティーポットも、コゼーも、所長の部屋にあるものにそっくりだ。
いや、もともとこのデザインだったろうか。夢だし、今この瞬間に形が変わったのかもしれない。
ああでも、と思う。
これは結局のところ悪夢だ。そういえばこの少女も心なしか所長に似ていないか。
これでは疲れなど取れないぞ。…仮眠など取らない方が良かったのではないか?
そして少女がついに器の蓋を開ける。
中には…忘れるはずもない。見覚えのある、山盛りの角砂糖。
少女が悪戯っぽく笑い、こちらをじっと見つめていた。
――ああ、所長もこんな顔、時々するよなあ。碌でもないことを言い出す前の顔……
いよいよジットリと嫌な汗が流れ出した、そのとき。
「フフフ? お好みでどうぞ」
少女が突然、カップと壺をこちらにすっと差し出した。
「そんなに怖がらなくても……可愛いんですね」
微笑んで、くすくすと笑った。
――やはり明晰夢だったか。勝った。
その瞬間、緊張がいっぺんに融けて、自分は大きな溜息をついていた。
壺から角砂糖を1つ、取り出す。
「おや、1つ入れるんですね。私は、……フフ。そうですね、たまにものすごく甘い味にしたくなったりもしますが」
カップに角砂糖を沈めると、それは小さな気泡を立てながら徐々に崩れていった。
久しぶりに、ちゃんとした紅茶を飲める気がする。
カップを手にとると、花のような爽やかな香り。
所長の部屋で飲むときも、あの液体はこんな香りがしていたんだろうか。
それこそ夢中で、まったく気にする余裕も無かったけれど……
突然、警報音が鳴り響いた。
――敵襲? スクランブル? 何事か!
ふと見ると、少女の姿は目の前から消えていた。
それに気がつけば耳元に自室の壁時計がある。けたたましい音はこいつのアラーム音だった。それに、…
そもそも自分はベッドの中にいた。
――あれ、自室で寝ていたのだったか。
夢を見ていた自覚もある。だから不思議も無かった。
――目覚ましのアラームなんていつの間にしかけたかな…。ええと今日の予定は…
まとまらない頭で必死に考えながら、ベッドから体を起き上がらせた。