平穏な日々でも(3)
「あ、痛!」
ナヴァホはコクピットの天井に盛大に頭をぶつけた。
脳が状況を受け止めきれずに盛大に混乱している。
――そうだ、俺は仮眠中だった。で、ここはY1のコクピット…
「何やってるんですかマスタ。モニタスクリーンに傷でもついたらどうするんです」
相棒が怒気を孕んだ声を上げた。コクピットにアラーム音が鳴り響いている。この音は…
「…おい、お前…いつの間に俺の部屋の時計のアラーム音、ダウンロードした」
「言ったでしょう、マスタ。確実に起こす手が30手あると。そのうちの一つですよ。お早うございます」
そう言って、彼女はアラーム音を停止させた。声が明らかに笑っている。
――おいおい、数が増えてないか。
ナヴァホはプライバシー侵害を訴えることをちょっと考えたが、すぐに無駄なことと思い至り、やめた。
「お前さんが優しく起こしてくださった、ということは仕事の時間だな。お客さんはどうしてる」
「15分前に本艦に到着しました。今、フルトが応接室に案内して概要説明中」
上司の名前を聞き、ナヴァホは夢を思い出して、言った。
「了解。では準備するか!……例の紅茶、お客さんにもお出しすればいいのにな」
「ああ、あれですか。あれは、彼女がとても気に入っているものですから……本当に気に入ってる人にしか出さないのですよマスタ」
「そりゃ光栄だね。本当に身に余るよ」
「フフ。そんなマスタに私からプレゼントです」
彼女が突然言った。
「整備の方にお願いして、お休みの間にドリンクサーバーの中身を取り替えてもらいました。首相がハンガーにいらっしゃるまでの間に、いかがです? 目覚めの一杯」
「お前……何か良からぬことを企んで無いだろうな」
「いえいえ、マスタの可愛らしい寝顔を拝見しましたので、そのお礼に」
「いい歳した男が悪夢にうなされてる様の見物料の間違いだろ……どれ」
ナヴァホは首元に伸びているシリコンチューブを咥えた。
慎重に、少しだけ吸い込んで、舐める。
「む。お前、こいつは…」
「眠気覚ましにはカフェイン分をと思いまして。紅茶ですよ。ここで飲むのは、新鮮でしょう?」
「甘さ控えめなのは有難い。紅茶を飲んでるって実感する」
「そんなにしみじみ言わないでくださいな」
「しかし……微妙に冷たいな」
「ドリンクサーバーでホットティー淹れたら、さすがに壊れてしまいますもの。我慢してください……あ、見えたようですよ」
ナヴァホはモニタスクリーン上の注視ウィンドウを拡大して、ハンガーに現れた一団を観察した。
スーツに身を包んだ初老の男性と黒服の男たち。様子から、今回のゲストである首相とその護衛であろう。
その一団を、スーツに身を包んだ金髪の女性が引き連れている。いつも所員が見慣れている、ひらひらの可愛らしいドレスではなかった。
「所長殿も戦闘服をお召しか。大変だな」
「あれがフルトの戦場ですから」
彼女も呟く。ウィンドウの中の女性がナヴァホの方を仰ぎ見て、手を振った。
「ナヴァホさん! それでは油圧系の動作実演、お願いします!」
凛と良く通る大きな声で指示を出す。
「よし。お仕事だ、エフィ」
ナヴァホは相棒に合図した。
「了解、マスタ。油圧制御系オン。弁制御開始。デモモード、プログラムAでスタート」
低い唸りと共に、ハンガーに宙吊りになっているY1の小翼がゆっくりと動作を開始する。油圧系で制御する各部機構を、ひととおり動かして見せる、いつものお決まりなデモンストレーションプログラムだ。
ウィンドウの中の女性が、スーツの男に何か説明しているようだった。
「ふう。この内容だと、俺が座ってる意味があまり無いようにも思うがね」
「マスタ、さすがに私が完全無人でも動作可能であることをおおっぴらには出来ませんので…」
「わかってるよ。…しかしこのお茶、ちょっと旨いな」
ナヴァホはシリコンチューブを咥えて、ぬるいアイスティーをひと啜りした。
「褒めても何も出ませんよ?」
「さすがにお前が淹れたわけじゃないだろ……そういや夢に出てきた紅茶」
「夢の中でまで上司が出てきましたか……それはうなされもしますね。少しばかり同情します」
「いや、可愛い子の淹れてくれた旨そうな紅茶だったんだが……もうちょっとで飲めたんだがなあ…」
「………」
その時だった。
ギギギギギギギギ!!!
突然甲高い、金属がこすれるような音がハンガーに鳴り響いて、止んだ。
異常な音に、所長も首相への説明をやめ、慌てて振り返る。
「…エフィ!」
……Y1は、デモンストレーション動作を止めて、沈黙していた。
「おい、どうした! 大丈夫か!」
ナヴァホはコンソールを操作して機体の状態を確認する。
ひととおりダメージチェックをするが、大きな異常はないように見えた。
珍しくしおらしい声で、相棒が応えた。
「すみませんマスタ……」
Y1は、着陸脚が半分収納されかかった状態のまま、収納庫のハッチが閉じていた。
つまり、自分で自分の着陸脚を挟んだ格好だった。
……フルトは頭を抱えた。
――何やってるの、エフィ!
「ほ、ほ、ほ。機械も緊張するのですね、よい勉強になりました」
首相が言った。
「は、はい! 今日はちょっと…! いつもはこんなじゃ、ありませんのよ!! ほほほほほ!」
とフルト。こちらも、珍しく顔が青くなっていた。
「…さあ、では次の見学場所へご案内いたします!」
フルトは引きつった笑いを浮かべながら、首相を先導してハンガーを後にした。
(平穏な日々でも・終)