さらに潜ってみる

恋愛に引き当てず、友情という、本来とらえるべき視点からもう一度考えると、これはこれで苦しくて。

テレビシリーズの終了時点では、個人的には、まどかとほむらの邂逅はいわゆる「アムロ…刻が見える…!」時空だと思ってましたんで、「ララァには、いつでも会えるから…わかってくれるよね」なアレのイメージを重ねあわせて、永遠の別れの後、その思い出を胸に生きていくEndという解釈であったわけです。

ですから、まどかがまどかの体を成しているからといって、まどかの魂魄的なものが、宇宙の理となってもそのまま個性を保っているとは限らない(演出上の比喩表現とも)と思ってましたし。まどかが契約する瞬間のマミや杏子との逢瀬も、まどかの記憶が作り出したマミや杏子の像、と理解する余地もあったわけですが。

でも、劇場版前後編を受けたあと、新編の設定解釈を受ければ、「宇宙の理となっても、どのような原理かはさておきキャラクター性は維持される」ということになります。

つまり、まどかの交友関係が爆発的に広がるわけ。まどかが魔法少女全員を等しくすくい上げようとすればするほど、まどかの思いやりがその全員に等しく配られるというわけで。
たとえ、まどかのキャラクターの心のうちでは、相手相手によって思いの深さが実は違うとしても、傍目には違いがわからんのです(まどかは誠実だからね)。

ほむらはまどかしか見ていなくて。まどかが好きすぎて。
まどかにとっても自分が一番であって欲しくて。…
いや、本人にとっては、一番でなくてもいい、「こっちを見て欲しい」なんだけど、他を置いて「こっちを見る」っていうのは、「一番であって欲しい」に限りなく近いんですよね。
もちろん、様々に理由をつけて、自分を納得させ続けることは可能だと思うけど、超弩弓の遠距離恋愛ですから…

新編のオープニングの、4人だけのダンスの中央で、うなだれて膝を落としぴくりとも動かないほむらの構図は、「一番大切な人に置いてけぼりにされている」感がビビッドに伝わってくるものでした。

「ほら、ほむらちゃんも」的に差し伸べられる手を取るが砂に変わるまどかは、その後の展開を暗喩するもの。しかし、後から思い返すと、「でも私を一番と思ってくれるわけじゃないんでしょう?」と感じてしまうことを指しているようにも見えます。

つまり、…一言で言ってしまえばこの部分は嫉妬、かな。
もちろんそれが全部ってわけじゃない。
いろんな愛が重ね合わせになっている、複雑な感情になっているのは間違いないんだけど。

ん…なんというか、シチュエーション的に同じような感覚に襲われたことがないわけではないんだよね。
子供のころ。そういうこともあって、どうしてもほむらの気持ちには引っ張られるのかな、と思ったのでした。

アルティメットの記憶がないまどかとの中盤での会話であの結論に至るのは、実は早計だと思うのだけれど…
無意識にでも嫉妬の芽が生まれていれば、いろいろ冷静な判断ができなくなるのは自然なことかな、と思う。

嫉妬なんて感じないに超したことはないんですけどね。
理屈でダメだとわかってても発生するあれは、…いったいどんな脳の生理現象が引き起こしてるんだろうね…?

でも、
ほむらが惚れた、憧れたまどかは、最初のワルプルギスのときの、凜々しいあのまどかなんだよな。
あの人に肩を並べたい、あの人を助けたい、が原点。
二人並んで討死にエンドかと思われたあのループで、おそらく物理的に肩を並べて戦ったのだろうけど、結局ほむらは助けられてしまっているんだよな。おまけに動機の強化までされちゃって…

なので、新編のフローは、ほむらの原点回帰ではある。
そして「まどかとの出会いをやり直したい、まどかを守れる存在になりたい」という願いが、悪魔化することで真に叶えられた、とも言える。(そう考えると、実は、彼女の祈った願いはまだ成就されていなかった、ループするたびに因果を増して、ついに新編で成就した、とも。もちろんテレビシリーズの時点ではそんな解釈をする必要はない)